
迎合せずに、徹底してこだわる人を、私はロッカーと呼ぶ
ロックの大音響とスタイルに魅せられてはじまったドラマー人生だったが
多くの経験をして
ロックとは心の底に「魂」を持ち続けている人の
「生き方の表現」であることに気がついた
Jiro“hitose”Oma 〜 大間ジロー 〜
♪いつもいつも
詞・曲 小田和正 1979年(S54)
あなたのことは忘れないよ
ふるさとの山や海のように
ふるさとの友たちのように
また会う日まで
いつも いつも いつも
いつも いつも いつも
いつも..いつも..いつも..
〜 We are OffCourse 〜

アド・ネット・さきがけ“郷(kyo)”インタビューより抜粋(写真、文章とも)
■まだガキだったあの頃
小田和正、鈴木康博のオフコースに22歳で加わり、
売れ出したのは『愛を止めないで』『さよなら』以降の26歳ころだった。
ロックの殿堂日本武道館でのコンサートも体験し、まさに上げ潮だった。
しかし、今、思うと、あのころの自分はまだまだ「ガキ」だった。
ロック、イコール破天荒な生き方をすることだ、
などという考え方は高校時代と少しも変わっていなかった。
突っ走る日々が続いていた時、
メンバーで4歳上の清水は二人きりになるとよく
「お前なぁ、今はこれだけど、ほんまは一人なんやで。
それをわかっておけよ、しっかりしいや」と口にした。
どこか訳知りでおとなびていた清水は何かに気づいていたのだろうが、
私は「また意味ありげなことを言って」位にしか思っていなかった。
だが、今思うと彼の言う通りだった。
「自分のスティック一本で生きてみせる」という反発心を頼りに
苦しいバンド活動を続けてきた私は
7歳年上の小田や鈴木の目から見れば「やんちゃ坊主」だった。
だが、
「売れなくても、いいもの、納得できるものをつくる」という彼らの姿勢は
私をある高みまで引っぱっていってくれた。
とにかく一生懸命で責任感の強い小田からは徹底的に実社会のルールを教え込まれた。
プロデューサーの手法も小田や鈴木から学んだ。
また会う日まで
いつも いつも いつも
いつも いつも いつも
いつも..いつも..いつも..
■自分はドラマーという職人
ロックにこだわっていた私は
オフコースに加わっても相変わらずロックドラマーだった。
オフコースはレコードだけ聴いていれば「優しく、耳ざわりのいいバンド」だが、
ライブではここぞとばかりドラムを叩いた。
調子に乗って叩き過ぎ、
メンバーに迷惑をかけたこともあったが、しっかりロックしていたと思う。
ドラマーは決して前には出ないけれど、
職人のようにドラムに徹するカッコ良さがある。
この場合のカッコとは見た目のカッコ良さではない。
生き方がカッコいいということだ。
私の言うロックとは心の底に「魂」を持ち続けている人たちの生き方の表現である。
今は亡きビートルズのジョン・レノン、
レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム。
この二人は他に迎合することなく、自分の生き方を貫いた真の「ロッカー」だった。
東北でいえば、イーハトーブの詩人あんべ光俊、
秋田でいえば古武士のような風格の伊藤武三さん。
秋田弁の劇作家伊藤さんは一本筋が通っていて小気味いいほどカッコいい。
あんべは売れようが売れまいが、自分の歌を大切に唄いつづけている。
いつも..いつも..いつも..

♪歴史は夜つくられる ♪愛を止めないで ♪SAVE THE LOVE
♪汐風のなかで ♪愛あるところへ ♪生まれ来る子供たちのために
♪いつもいつも
【伊藤武三(イトウタケゾウ)】
大正15年、秋田県平鹿町醍醐生まれ。
慶応義塾大学文学部史学科卒。
一時期、秋田県庁に勤務したが、
後に秋田県内の小、中、高等学校の教師を勤め
県立横手城南高等学校を最後に定年で退職する。
在職中、演劇の指導にあたり、あきた弁の劇を創作。
主な作品に「嫁ききん」「青春葬送曲」など。
また草柳大蔵氏と「あきた弁の味わい」で対談、AKTより放映される。
さらにNHKの「ホッとなるあきた」に出演し(十七回)、あきた弁を語る。
平成元年1月より秋田魁新報社「月曜論壇」の常任執筆者として、現在も執筆中












昨晩も,小田さんの素敵なトーク。
ゲストは財津さんでした。
お二人の心が通じ合っていて,素敵です。
またまた,感激している+Lhacaでした。
カテゴリー・・反映してますね・・
さてトラックバックさせてただきますね。
どーかなぁぁぁ
らーちゃがTBしたら成功した・・
うーんおかしい(笑)
だから 僕がそっちで言ったでしょ
月曜組曲・小田さんに対するらーちゃのど根性を見習いなさいって(⌒_⌒)
TB ありがとうございました。